昭和48年10月14日 朝の御理解
御神誡 一、「壮健なとき、家業をおろそかにし、物事に驕ること。」
今日は私、あの御神誡を頂く前に御神訓というのがありますね、御神訓、神訓の訓という字を頂いた。そして今の御神誡を頂いたんですけども、訓という字は言偏に三本川という字が書いてあるですね。言偏に川という訓という字。是はまあ言葉に表すと、例えば私が言うた事を皆さんが流してしまうと言う風に私は感じた。言うた事を川と言う事は、流すと言う事。私が此処でお話した事が、皆さんが聞き流してしまうと。だから今日の御神誡。壮健なとき家業をおろそかにし、物事に驕るだけの事ではない。
日々頂いておる御教えを、只頂いておるだけで、いうならば聞き流しておる様な事では出来ない。物事に驕る事と言う事は、物事物一切をお粗末にすると言う事だと思うんです。例えばそれが物事に驕ると言った様な事、贅沢なものと言った様な物があります。食べ物でも着物でもそれぞれね、一寸贅沢な食べ物贅沢な着物というのがあります。けれどもそれは何処に基準を置いて贅沢というかと言う事は、中々難しいと思うんです。ね。例えば一万円の給料を取っておる人が。
一万一千円の生活をすれば、それは私は物事に驕る事になると思うんです。十万円取っておる人が八万円使う分は、私は驕る事にはならないと思うですね。あそこはもう良かもんばっかり着なさる。あそこは良かもんばっかり食べなさる けれどそれで例えば、食べとったって着とったって、是は総てがそうですけれども、それが充分に出来て行くだけのなら力を持っておれば、それは私は贅沢じゃないと思うです。
どんなに例えば立派な家に住んでも、それを本当に充分に維持して行けれたら私は贅沢じゃないと思う。ですから今日そのまあ物事に驕ると言う事は、粗末にしてはならないと言う事だと思う。昔の御神訓の日めぐりにね、いっちょいっちょに絵が書いてありましたよ。その丁度この御神訓の、壮健なとき家業をおろそかにし、家業に物事に驕る事と言う所の、日めぐりあそこにはですね、御飯を頂きよるです魚なんかでも端の方、ちょこっとばかり箸を付けたの、ぽんぽん庭に捨てておる所の絵が書いてありました。
今あのカレンダ-は無い様ですね。魚を食べてはならんと言うのじゃない。野菜ばっかり食べておけと言う事では決してない。毎日々、魚の好きな人は、魚の食べられる私はおかげを頂く事だと思う。問題は、但しそれを粗末にしてはならないと言う事。もう半分ばっかり食べといては、捨てる腐らかす。自分の不注意の為に、それが粗末なっておる。そういう意味だと思いますね。そこでです、なら是はあのう食べ物とか、物とかと言うだけでなくて、物事と此処にあります様に、物事でもそうであります。
物事を言わば粗末にしてはならない。昨日の十三日会は盛会でした。終わって此処で御祈念をさして頂く時、私が頂きましたお知らせは世界地図、その世界地図が、例えば日本は赤とかね、ソビエトは青と色々、色わけがしてあるですね。それがね各国のその国々の色と言う物が、まあ是が端布で作ったであろうと思われる着物の端布がありましょう。その端布をはいで、日本は日本の赤の丁度、木目込み(きめこみ)人形と言うのがあります。木目込みの様に、ずうっと地図が出来ておるというお知らせでした。
此処で世界真の平和を願う、世界総氏子の身上安全を願う。此処はそれを、所謂和賀心時代を創ると言う様な風に、まあ具体的にそういうささやかな運動が合楽自体に起こっておる。まずは自分の心中から、自分の家庭から、自分の周辺をその和賀心一色にして行こうと、そこに人間の幸があるのだと。確信を持てれるだけの物を先ず自分が頂かねばいけない。成程自分が和らぎ喜ぶ心になりさえすれば。
こういうおかげも受けられると言う事。そういう事実を、そういうおかげをふんまえてのものでなからなければ、和賀心、和賀心ばかり宣伝してみた所で誰もついちゃ来ません。成程、信心しよんなさる。しかもその、和賀心と言う事に焦点をおいてね、なさっておられる。成程、和賀心には、人間の幸せの条件の全てが、足ろうて来るもんだなあ。付いて来るもんだなあと言う事が。
例えば信心のない人が見ても、それを感じる位なものを、自分の身の上にも、家の上にも頂いて行かなければいけない。ね。是を見て下さい。和賀心を目指すと云う事はどういう、因縁の深い人であろうがです、どういう難儀な人であろうがです、この和賀心の前にはそれこそ、霜に煮え湯をかけた様に、綺麗になって行くものだ。おかげの受け物がそこから出来て来るんだ。人間の幸せは、そこから始まるのだと言う風にですお互いが、それを明らかにして行かねばいけない。
昨日は、十三日会で私が、その最後に、申しました事でしたけれども、一つ今度のお祭りは、教祖九十年という、記念の御大祭である。この記念にです、その自分の何おかをです一つお供えさせてもらう記念に、何をお供えするかというと、神様から、一番嫌われておるものとでも申しましょかね。是があったんでは、おかげにならんと自分で、薄々気付いておるもの。
例えば此処で五つの願いをさして頂いて、あの五つの願いが出されてこの方、私はどうでも体の丈夫を願わねばならない為には、決して今まで夜食などして、どんなに夜更かししても夜食をしないと言う事を、神様に誓った、言うなら夜食をお供えした訳である。どうぞね家庭に不和の無きが元と言う事を願わせて頂くならばです、お互いが家庭の中でです、責め合うておる様な事ではいけないと思うから。
私はどうしてこう言う事を言わない事に決めた、お前はどうしてこう言う事をするか、と言う様な事を言わない事に、人を責めると言う事をお供えしてしもうた。と言う様にですね今まで、例えば人の悪口を言うたり責めたり、昨日もその話が出ました。合楽の信者さん方はあまり心易うまぎれに、人の悪口をよく言う。しかも本当に聞き捨てにならない様な悪口を言う、と言った様な話が出たんですけども、そういう悪口を本当に言うておる人が、もう絶対人の悪口だん言わんと、言う事をお供えしたら良いのです。
人の悪口を言う時には、そこに居ったら逃げよと仰るのだから教祖様は、もう聞かずに逃げると言う位な、私はそこの事を一つお供えしても良いのだ 人を責めると言う事、是は銘々の手元の所でです、自分の言わば心の中にある事です。又それは形の事でも良いですよ。こげな悪い癖があるならですその悪い癖を九十年祭にお供えしょうと言う様なお供えを、一つ皆で申し合わせよというて、言うなら申し合わせをした事でした。
銘々それぞれ自分の是だけはと言う物を、だからお供えなさる事でしょう。そういう例えば、一つの原動力になる物、改まると言う事に於いてもです、力が無からなければ改まられません。改まにゃん事は解っておるけれども、改め切らんそれは有難いという心が薄らいだからだ。力が無いからだ。如何に世界真の平和を願ってもです、如何に世界中に、和賀心時代を敷かせて貰うと、和賀心時代の運動を、展開さして頂いてもです、自分自身がその和賀心にならせて頂く事に本気で勤めなければならない。
為にはまずこう言う物があったんでは、和賀心の邪魔になる心があったんでは和賀心の邪魔になる事をしょったんでは、和賀心が頂けない事が解りますから、改まらなければ出来ません。そして信心とはです一切を生かして行く事だと。例えばこんなもんないらん。例えば今日の御理解で物事に驕ると言う事、もうそれをもうまだ使えれば使える物でも、ぽんぽん捨てて行くと言った様な事をせずにです、私共の上に起きて来る所謂事柄、物事として。その中には必ず自分の都合の良い事ばかりは起こって来ない。
都合の悪い事も起こって来る。腹の立つ様な問題も起きて来る。情けない思いをする様な事も起きて来る。けれどもそういう問題をです、生かして行くと言う事。そういう事柄をです、喜びに変えて行くと言う事。私が一番最後に世界中の地図がいうなら、端布で埋めてある。端布でその地図で出来ておる事はです、是はもう端布を生かした事になる。そういう一切をです、例えば此の世の中には。
神愛が満ち溢れておると私共は確信せなければならん。人間が不幸せになる様にと言った様な物があるはずはない。一切は人類の幸福の為にある物だと。それが苦い物があれば臭い物もあると言う事なんです。痛い事もあれば痒い事もあると言う事なんです。それをです生かして行くと言う事が、人間の幸せに繋がるんだと言う事をです解ると言う事だけでも素晴らしい、一切を生かして行こうと言うそう言う心掛けになると言う事、ね。廃物を利用する、廃物利用と言う事を申します。
廃物を利用すると言う事、生かして使うと言う事、その生かして使うと言う事ですけども、それが物ではなくて事柄の場合、此処に物事とある。それが物事である場合、自分に得になる事は有難いけれど、損になる事はいやだというて向こうに流す事はです。それはその事柄を粗末にしておる事なんです 損になる事であろうが、嫌な思いをする事であろうが、それを生かして使うと言う所に信心があるのだと。
とにかく世界中の人間がですね、此の世は神愛が満ち溢れておる、どんな問題、難儀な問題、よくよくそれを解らして貰うと、所謂それは氏子可愛いの一念であると言う事が解ったらです、それをなら生かさなければ人間の幸せにはなれないと言う事を、解ると言うだけでも私は問題が解決すると思う。世界中の例えば難儀な問題が、ね、それをまあいうならば、自分の心の中に、自分の一家の上に。
先ずそれを頂いて行こうと言うのである。ね。一寸困った事があったらもう、頭痛こきだす、頭痛こきだすだけならよかばってん、頭痛こきだすとちゃんと寝てしまう。ほんなこて、是がある人から見たらお礼を申し上げんならん様な事に頭痛をこきだしとる。そう言う事では人間の幸せは望めないです。甘いもの好きな人に、甘いものばっかり集まって来れば良いけれども、甘いもの好きな人の所に、苦いものが集まって来る事があるけれどもです、その苦い物を苦い物として。
頂く気になれば、ああおかげで苦い物を頂いたおかげで、胃腸が強うなったというなおかげを頂いて行かにゃいかん。私は苦い物は好かん、甘かもんだけでなかればいかんと言うから、今度は反対に胃が悪うなっしまう。歯は虫歯になってしまう。神様が頂けと言うて下さるとなら、苦い思いをしてでも、それを合掌して受ける気になると言う事。それが私は物事に驕る事、物事を大切にする事だと、物事に驕ると言う事は、物事を粗末にする事だと言う風に今日は聞いて頂いた。
壮健な時家業を疎かにしと、若い時にいうなら、健康な時に遊びほうけておって良かろうはずがない。それこそせっせと働かして貰う、それこそ働き蟻の様に、若い時に例えば苦労させて貰ろうた。若い時の苦労は買うてでもせろと言われる位ですからね、若い時にしっかり信心の修行をしとかにゃいけない。若いと言う事は是は歳が若いとか年を取った言う事ではないとう思う。もう此処では信心の若い内にだと言う事。ね。
信心を言うならば解りかけて来た。信心の若い時にしっかり、今こそ信心の修行をしとかなきゃいけませんよ。基礎を作っとかにゃいけませんよ、と言う事です。ね。お互いそう言う基礎作りの時に、まだ基礎も出来んのにです、例えば物事に驕る様な事であっては、何時までたっても、本当な力は頂かれません。おかげは受けられません。今日は私は神訓の訓と言う字を頂いた。
だから是は言う事を流す言うなら此処で、私が言うておる事を話しておる事をです、皆さんが只聞き流されたんでは、こんな言わばお粗末御無礼な事はないと。所謂神様のお言葉を無にしておる訳ですからね、こんなお粗末な事はない。言うならば驕る事になるのじゃないでしょうか お粗末にしておると言う事、それを日々一言でも頂かして貰ろうてその一言がです、千両の金にも替えられない程しの、お徳を作って行く基にして行く時に、始めて信心の力と言う物が頂けるのです。
信心は一切を生かして行く事だと私は言うても良いと思う。信心とはどう言う事ですか、信心とは、一切を生かして行く事なんです。ね。過去にどういう難儀な問題があったにしても、どんな嫌な思いをする事があっりしましても、その事のおかげでと思えた時にはです、もう過去を生かした事になるのです。そこに始めて神様がお喜び下さるね。過去を生かして行くと言う事、言わば廃物利用である。
ああ言う事が無かったなら今頃はもちっと増しなと思う様な事であってもです、ああ言う事のおかげで、今日の例えば信心があると言う風に解ったらです、それは物事を生かして行く事になります。信心とはそう言う風に一切を生かす事。んなら日々の目の前に表れて来る問題でもです、物事でもです、それを如何に生かすかと言う事を、私は信心は稽古するとはそう言う事だと思う。
教えはそう言う事の全てである。言うなら生かす道である。ね。例えば同じ魚があっても、野菜があっても、その味付け如何んでは、食べられもすりゃ、食べられなくもする。美味しくもありゃ、美味しくもない様に、その味付け加減を信心は教えて貰うんだと思う。その味付け加減を教えて貰っておるんだけれども、それを聞き流しておるから、愈々の問題をです、問題にしてしまう。
その問題を言わばおかげにして行く時に、問題は無くなるのです。今日はそういう例えば私はおかげをですね、この御神誡の中から聞いて頂いた。私の此処で皆さんに聞いた頂いとる事をですよ、成程、成程と思うただけじゃ詰らん その成程と思うた事を一つでも、実行してそれを自分の身につけて行くという。聞き流してはならん。それを自分の血肉にして行くという、生き方を求めての信心にならなければならないと言う事を聞きて頂いたですね。
どうぞ。